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忘れてしまうから
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からみ合いつながり合う 全9章、 4時間38分 2010年の 「罪と罰」! と、まあものものしいキャッチコピーですが、観てみると、これがちっとも大げさではなく、むしろこれでも物足りないほど堂々とした映画でした。 封切り当時、たくさんの評論家や映画人から絶賛の嵐だったようで、あの中原昌也さんですらありあまる賛辞を贈っていましたが、それもなるほどと納得しました。もう、わたくしごときがつべこべいうこともないのですが、一応、このブログは自分の覚え書きなので書いておきます。 冒頭、狐面の男とその男が操る乱れ髪の能面人形の(人形浄瑠璃を等身大にしたような)舞踊が披露される。緑の草原に狐面の白装束と人形の江戸模様鮮やかな振りそでが映える。その彩りにまず釘付け。 主人公は、両親と姉を殺害され、突然、ひとりぼっちになってしまった8歳の少女、サト(子役・本多叶奈、16歳以降・寉岡萌希)だが、他にも、家族を殺されたトモキ(長谷川朝晴)、一人息子を男手一つで育てているカイジマ(村上淳)、父親の暴力で片耳の聴こえないタエ(菜葉菜)、若年性アルツハイマーの宣告を受けた人形作家の恭子(山崎ハコ)、通りすがりの母子を殺害してしまったミツオ(忍成修吾)などが、それぞれ、身をよじるような、胸をかきむしられるような苦悶をかかえている。彼らはその苦悶と向き合ったり、目をそらしたり、押しつぶされそうになったり、忘れ去ろうとしたり、やけっぱちになったりしながら、それでも微かなふれあいに縋ろうとしている。まるで接点のなかった彼らが終盤にむかって1本の赤い糸をたぐり寄せるかのように収斂していく。 だれが主人公なのかは、大きな問題ではない。誰もが主人公であり、脇役でもある。それじゃストーリーがぐちゃぐちゃになりませんか?というかもしれませんが、そうなんです。ぐちゃぐちゃです。でも考えてみれば、わたしたちの人生だってぐちゃぐちゃじゃないですか?なにひとつ解決しないままぐだぐだやってませんか?「美男美女が恋をして、まわりの人たち全員が祝福する結婚をして、お金にも病気にも人間関係にもまったく困らず幸せになりましたとさ、ちゃんちゃん!」なんておとぎ話のような人生が、実際問題としてありますかありませんよね。あ、話がそれました。でも「それる」っていうのがこの映画のポイントでもあります。憎しみがだんだん薄れてしまっていったり、逆に憎しみが強くなりすぎて、関係のない人まで憎んでしまったり、そうかと思うと、思わぬ人と出会ってしまったり、下手すりゃ子どもが生まれたり、そうやって人間の気持ちってどんどんそれていきますよね。だからこじれることもあれば、救われることもあるけど。 5時間に及ぶ長尺をすこしも長いと感じない。また殺人、復讐という重いテーマなのに、重苦しさはない。むしろすがすがしい。 それは全編が9章に区切られていて、それぞれにタイトルがついていることや、情景の美しさ、人の動き、人の顔がしっかりと映し出されていることなど、観る者を飽きさせない監督の技量だろう。瀬々監督は、観客はなにが観たいのか、をほんとうによく知っていると同時に、自分は観客になにを見せたいのか、その1点がぶれない。 海、渡船、埠頭、砂浜などがよく出てきます。海が生命の源ならば、そのむこうは彼岸を暗示しているようにも思えます。四季折々の鉱山団地の廃墟は、空にもっとも近い場所、つまり「ヘヴン」を思わせます。ほかにも桜、もみじ、雨、風、蝉の抜け殻、雪など、いわば誰でも安直に使っている道具が、これほどまでに美しかったとは!とくに雪の降るシーン。これにはやられました。 あと見逃してはいけないのが、(といっても見逃すことなどできない鮮烈さですが)、人形たちです。冒頭などにでてくる人形もそうですが、途中で人形作家の作品としての部屋に置かれた人形の表情には鬼気迫るものがあります。どんな人間よりも、脳も心臓もない中身空っぽの、つくりものの人形の方がはるかに人間の情念を表している。ある種のホラーだ。 「善人も悪人もいない。そして勝者も敗者も、その審判を司る神すらもいない。世界にはただ悲しい存在である人間がいるだけだ」(中原昌也コメント) 実話に基づいた心温まる映画だ。ソーシャル・ネットワークは観てないけど、ブラックスワン、インセプションを抑えてアカデミー賞を受賞しただけのことはある。吃音に悩む英国王、ジョージ6世(コリン・ファース)が、権威あるイギリスのセラピストではなく、亜流のオーストラリアの、それも資格があるかどうかも疑わしい元舞台俳優のセラピスト、ライオネル(ジェフリー・ラッシュ)から言語療法を受ける。 イギリスがドイツとの開戦を前に、国王がイギリス国民の不安を一蹴する名演説をして、その演説が精神的支柱になりイギリス国民は苦境を乗り切ったというのは、世界史の授業でよく聞いたが、こんな裏話があったとは。こういう映画を授業で見せてくれたら、すぐに覚えるのに。 診察室では対等の立場をとることにしたジョージとライオネルのやり取りが面白い。ジョージは緊張から逃げようとしてタバコを取り出す。ライオネルは「ここは禁煙だ」と遠慮なくそれを取り上げる。 「さあ、君の子どものころの思い出を聞かせてくれないか」 「わたしはおしゃべりに来たのではない」 「じゃ、なにしに来たんだい」 「話せるようになるためだ」 大真面目であればあるほどユーモアは光る。 「何か知ってるジョークがあるかい」 「あいにくタイミングを苦手としているもんでね」 (わたしに語学力があれば、このフレーズの面白さがわかるのだろう) 大音量のベートーベンをヘッドフォンで聞かせながらシェークスピアを朗読させ、それを録音する。ジョージは音に負けまいと大声で朗読するが、いったいなにを話しているか、見当もつかない。 「もう君の治療は受けない!」とジョージは怒って立ち去ってしまう。 ライオネルは「失敗したかな」と独り言をいうが、あとでジョージがそのテープをきいたとき、自分は一度もつっかえることなくよどみなく朗読していた。 ヨーロッパの雲行きが怪しくなる。テレビに流れるヒットラーの演説をみて、ジョージの長女(現エリザベス女王)が「パパ、この人、なんて言ってるの?」「よくわからないけど、演説は上手いな」 国民にむけてスピーチをするかどうかジョージは迷う。王室に入るとライオネルが王の椅子に座っている。 「そこに座るな」 「ただの椅子さ」 「王の椅子だ。わたしが座るところだ」 「おや、王なんかになりたくなかったんじゃないのかい」 「国民に伝えたいことがあるんだ」 「決まりだな」 ジョージとライオネルだけがラジオの音声室に入る。 「さあ、僕に語りかけるように僕だけを見て話すんだ」 ライオネルが指揮者のようにジョージを誘導し、二人は共鳴しあい、ジョージは思いのすべてをことばにする。イギリス国民の魂ともなった名演説が、ここから生まれる。心震える場面だ。 みんなから拍手喝采と受けたジョージにローグは言う。 「やっぱり君はWの発音が下手だな」 「私だという特徴を一個くらいは残しておかないとな」 妻エリザベスの献身もすばらしい。どんな人でも苦難を乗り越えるためにはずっと傍にいて自分を信頼し続けてくれる人の存在が不可欠であると、改めて思う。 映画にはないが、実際に、ジョージとエリザベスが大戦中、側近が疎開を進言するのを聞かず、あくまで首都に居続けることで国民と戦争の苦難を共有しようとしたことは、有名な話だ。優しさと強さを併せ持った、この精神が、今のエリザベス女王に伝わっているのだろう。 ジョージを演じたコリン・ファースは徹底的に吃音を研究したらしい。 吃音のある人は、メニューをみて、食べたいものがあっても、それが言いづらい名前だったら、避ける。 違った意見の人に反論したいときも、「お前にそれが言えるか?」という心の声がつきまとう。 でも、おしゃべりの苦手な人はいても、おしゃべりの嫌いな人はいない。 心に巣食うもやもやを取り除けば、あるいは、どうしても伝えたい相手が現れたら、人は多くのことばを操るのだと思う。 コリン・ファースはインタビューでこう答えている。 「障害を克服?そんなことはしないよ。それはウソだし間違っている。彼(ジョージ)は障害に向き合ったんだよ。自分の中にひそんでいる他のものをみつけただけだよ」と。 最後に余談ですが、コリン・ファースの親友(?)のヒュー・グランドについて。 この二人はなにかと縁が深い。誕生日が一日違い(1960年9/9と9/10)だし、共演も多い(ブリジットジョーンズの日記やラブアクチュアリーなど)。二人とも今では貴重なイギリス英語の発音をする俳優だ。最初、ヒュー・グラントにこの映画の話があったとか。コリンにアカデミー賞まで持って行かれて地団駄を踏んだとか。ウーかホーか知らないけど、この二人のラブコメディをそろそろ観てみたい気がしませんか。 吉田修一は仏教の「善人成仏す。ましていわんや悪人をや」を意識して『悪人』を書いたと思う。善人ですら救われるのだから、悪人が救われるのはいうまでもない、という思想は、それほどに仏さまが慈悲深いのだということが言いたいのだと思うが、ここでひとつ私見を。仏教はキリスト教と違い、人を性善説か性悪説で二分しない。 輪廻とか因果応報という考え方に代表されるように、仏教には何事もつねに流転し、回り回って元に戻って行くという思想が根底にあると思う。それは一人の人間の中でも言えることで、さまざまな煩悩がなにかのきっかけで浮かんでは消え、消えては浮かぶ。あたかも灯籠のように怒りや嫉妬や満足や愚痴がぐるぐると回っている。よろこびの次には悲しみが、希望の次にはまた絶望が、否応なく順番に巡ってくる。となると、中途半端に、善行を施し満足している状態よりも、むしろとことん悪に染まってどうしようもない状態のほうが、闇が深ければ深いほど暁が近いように、悟りに近いと考える。声聞不成仏(知識人は成仏できない)というのもそのあたりにある。煩悩にのたうちまわり、自分の無知、無力に苛まれている衆生の、すぐ傍に、悟りが待っている。 吉田修一原作の映画化。パレードは原作が面白かったのに、映画がつまらなかったので、この人の作品は映画には向かないのかな、と思い、あまりと期待してなかった。ところがどっこい。すばらしい映画だった。李相日監督の手腕によってはこうも変わるものなのか。登場人物をしっかり描くことで人間の本質に迫るものがあった。 被害者のチャラくてやかましい保険外交員、佳乃を満島ひかりが演じる。うちの夫は「こんな女だったら僕でも蹴飛ばすな」。演技とは思えない。それにしてもこの子はどうしてこんなにリアリティがあるのだろう。末恐ろしい。 柄本明の渋さはいうまでもない。佳乃が決して出来のいい娘ではないと重々知っていながらも、実際にその娘が殺されたときの親の気持ち。いいようのない悲しみがじわじわと伝わってくる。 殺害のきっかけを作った大学生の狂乱する姿を窓越しに見ながら「大切な人のおらん人間が多すぎる」と憤りに震える。 娘の殺害現場に花を手向ける。雨が降っている。誰もいない空にむかって傘を差し出す。親にしかみえない雨に濡れた我が娘に話しかける。 加害者、祐一の祖母役をする樹木希林はやっぱり凄まじい。 母親に捨てられた祐一を手塩にかけて育ててきた。その祐一が殺人事件の容疑者となって追われている。無風状態だった家にマスコミが押し掛ける。 「どんな孫だったんですか?」「おばあさんとして殺された家族になんと言って謝るのですか?」 祖母はそれでも入院している祖父の病院に行かなければいけない。着替えを鞄につめて祐一がくれたスカーフを首に巻いて外にでる。案の定、マスコミに囲まれる。背を丸め、逃げるようにしてバスに乗り込む。バスはマスコミを振り払うように発車する。名シーンだ。李相日監督の出世作『フラガール』での蒼井優が「じゃあなあーじゃあなあー」と叫びながら田んぼの土手を走るシーンとかぶった。乗り物であれ、歩きであれ、人が動く場面に情感が溢れる。 バスの運転手のセリフ「ばあちゃんのせいじゃなかと」が光る。 脇役ばかり褒めてしまった。 ヒロイン、光代の深津絵里、主人公、祐一の妻夫木聡はもちろんいい。ただ脇の人物をしっかり描くことで主役を引き立てるやり方はこの監督の真骨頂だと思う。 二人の逃避行の場面。細くうねった海岸線の道。不安に怯えながら車を走らせる。海へ、遠くへ、ここではないどこかへ、果てへとただひたすら走る。なにかを追い求めていると同時に、なにかから逃げている人生そのものだ。 やっと辿り着いたのは絶壁にたつ灯台だった。船に道を指し示す灯台に、道を見失った二人が行き着くなんて。 とうとう居場所がバレたようだ。祐一は光代に馬乗りになって彼女の首を絞める。そこへ警察が入ってくる。祐一はほんとうに光代を殺そうとしたのか。それとも自分が悪人になることで光代を被害者にしたてようとしたのか。 無事保護された光代がタクシーに乗る。運転手が「ひどいことをするヤツがおるんですね」 光代は応える。 「そうですよね。悪い人ですよね。人を殺したんですもの、悪人ですよね」 世間一般のレッテルと、実像との落差を痛いほど感じながら。 夜更けのレンガ道を中年の夫婦がもくもくと歩く。その画面上に普通なら最後に出てくるスタッフロールが長々と流れる。ここに監督のある仕掛けがなされていることに気づくのは最後まで見てのお楽しみ。外では寡黙だった夫婦が家に帰ると様相は一変する。妻のマーサ(エリザベス・テイラー)がヒステリックにがなりたてる。なじる。けなす。愚痴る。髪をかきむしる。皿を投げつける。こんな妻だったらどんな夫でもうんざりするだろう。夫のジョージ(リチャード・バートン)につくづく同情する。つまり映画の中に取り込まれる。監督の狙い通りだ。 マーサはこれから来客があるという。「えっ、こんな夜更けに? そうでなくても僕は君のお父さん主催のパーティーでへとへとなんだよ」。ジョージはマーサに聞く。「ゲストはハンサムかい?」「ええ、そうよ」。ジョージは納得する。辟易するジョージをよそ目にマーサは散らかった下着をソファの下に隠し、食べ物の残りかすを暖炉に投げ入れる。そのあいだも彼女の口からはジョージに対する罵声は止まらない。 客人は若妻を同伴してやってくる。好青年の割に貧相な妻だ。(ここもミソ) こうしてちぐはぐな4人の気まずい「パーティー」が始まるのだが… 始めはマーサがあまりに毒々しいため、ジョージに応援したくなる。運悪く居合わせた善良そうな若い夫婦を気の毒に思う。でもやがて、おやっと思う。高慢な妻にガツンと言ってやればいいのに、と思う場面で、ジョージは、ひたすら耐えたりジョークで躱したりするくせに、思わぬ所でちくりと反撃する。そのやり方が陰湿なのだ。たとえばマーサが「Get’em,you!!」と叫んだその瞬間にドアを開けて初対面の客にわざと見せる。悪意に満ちている。ジョージはときに狂気をおびた陶然とした顔をする。中年夫婦の醜いさが露になっていくに従い、その狂気が例の貧相な若妻へと伝染する。ハンサム青年夫も黙っていない。四つ巴えの罵詈雑言となる。ことばのボクシング。それも多彩な技。もうどこまでが本音でどこからが妄想なのかわからなくなる。でも、たまねぎの皮を剥くように何かが、明らかになっていく怖さがある。たまねぎを剥いていると思っていたら、実は魚のハラワタだったり、そうかと思えばなにひとつ肉薄してなかったり、そのくせ指は血だらけになっていたりする。セリフ一本で釘付けにするにはこれくらいの意外性と深みがないといけないんだな。(つかこうへいさんなども、この映画の影響を受けだんだと思った) 貧相な若妻の変貌ぶりには驚かされる。マーサを演じるリズは、もう演技の域を越えている。夜の森に向かって「ジョージ!!」と呼ぶ声などは、まるで子宮が叫んでいるようだ。 このときのリズはまだ30歳代。50歳代の妻を演じるため、ジャンクフードを食べあさったという。二重あごとドスの利いた声は、クレオパトラで美貌の象徴とされたイメージを木っ端みじんにする。改めて偉大な女優だったと痛感した。またリチャード・バートンの受けが絶妙。さすが名優の名をほしいままにしただけのことはある。この二人は実際でも夫婦だったから、これほどの臨場感、熱演ができたのかもしれない。いや、こんなにも罵り合ってしまったから離婚してしまったのか。 マーサが本当は何を欲しているのか、それを匂わせるワンシーンがある。一瞬だけど、あまりにも印象的な表情をする。マーサが欲しがったのは、ふがいない夫の出世? ありあまるお金? 出来のいい我が子? 絶倫男? いいえ違います。その哀しい女心をちらりと見せる手法は鮮やか。 この映画は、登場人物がたったの4人で、その4人が4人ともオスカーにノミネートされたこと、ハリウッド映画で初めて「Fuck you!」が使われたことでよく取りざたされるが、いまなお色褪せないのは、やはり人間洞察に満ちた脚本とキャストの圧倒的な個性にあるのは言うまでもない。 誰だって胸の奥につかえた本音がある。でも、それを言っちゃぁおしまいよ、と思うから言わない。人とのつながりが切れるのが怖いから言わない。黙って我慢する。こういう経験に覚えのない人などいない。その意味でこの作品は、激しい舌戦に腰が引けつつも、人が人である限り時を越えて共感を呼ぶだろう。夫婦という人間関係の危うさは、すなわち人とのコミュニケーションの難しさでもあるだろう。 99パーセント不実でも1パーセントの誠実があればいい。ただしそれは自分が相手になによりも求めている誠実でないと意味がない。99パーセント愚弄されても1パーセントの敬意があればいい。ただしそれも自分がもっとも大切にしていることへの敬意でないといけない。このあたりのすれ違い、はがゆさ、もどかしさ、齟齬。人と人は、たった1ミリの隔たりを埋めることもできないのだろうか。 結局、中年夫婦はどうなったのか。招かれた若い夫婦はどうなるのか。 George and Martha. Sad, sad, sad....
空を さいしょに青く塗った人のことなどかんがえているのです
きょうの予報は ひかりとあめとにじ ときどき 魂 さっき わたっていったひとは 上半身と下半身をすこしはだけて もうむこう岸にほどけている 生きぎわと死にぎわが はしのなかほどで まだ ひっそりゆれていて はずかしいからと たどりつけないおもいの そんな全裸の紅葉(あき)に はぐれては ひらり ひらり なにひとつ はばむものもない 空の手にさわっているのですよ 彼岸と此岸をすこしまねいては さっき水に ことほいでやったのです はじまりもなければ おわりもない くちすぎ の 花の浮力まで おりて あとは しずかな蜜をはむ その姿勢(かたち)さながら 波紋するふかさ 気配する 水鳥に 空を らくがきした遺言のよう いま それを読んでいるひとの くもいにまどう 風の白波 なにひとつ所有するもののない かるさとはかなさ さびしさを 風呂敷のようにひろげ あたりには だれと はいえませんが たまに金木犀の香りもしていましたよ (川上 明日夫)
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からみ合い
実話に基づいた心温まる映画だ。ソーシャル・ネットワークは観てないけど、ブラックスワン、インセプションを抑えてアカデミー賞を受賞しただけのことはある。
吉田修一は仏教の「善人成仏す。ましていわんや悪人をや」を意識して『悪人』を書いたと思う。善人ですら救われるのだから、悪人が救われるのはいうまでもない、という思想は、それほどに仏さまが慈悲深いのだということが言いたいのだと思うが、ここでひとつ私見を。
夜更けのレンガ道を中年の夫婦がもくもくと歩く。その画面上に普通なら最後に出てくるスタッフロールが長々と流れる。ここに監督のある仕掛けがなされていることに気づくのは最後まで見てのお楽しみ。